ボーマンダの曲射

社会人が綴る日常の中の非日常

春の読書月間

 

立春も過ぎて暦の上では春へと突入した今日この頃、徐々に読書も捗る季節へと入ってきた。

 

さて、まず初めにだが僕はほとんど読書はしない。1ヶ月に1冊は確実に読まない。

もちろん波はあるが、平均したら2、3ヶ月に1冊が良いところだろう。

 

そんな僕が先月の末から少しずつ読み進めている本がある。

それが『史記』だ。

 

へ?と思った人も多いだろうが、大体の人は内容や筆者、そうでなくても名前ぐらいは知っているのではないだろうか。

そう、中国の歴史家司馬遷によって紀元前1世紀ごろに記された歴史書である。

 

内容は至って簡単、中国創世記の三皇五帝時代や伝説上の王朝の夏から殷や周、漢といった具合に司馬遷が生きた時代までの歴史を記している。

 

四面楚歌や臥薪嘗胆、傍若無人といった有名な故事成句はここからきてるほど、日本にとっても全くの無縁というわけではない歴史的な書物である。

 

 

 

 

歴史書を読んだってそれ一般的な読書とはちょっと違うような…っていう意見もあるだろうがそれは最もな意見だと思う。

 

年末年始にも史記とは別の歴史書を読んだが、それは全く読書という感じがしなかった。「書を読んでる」のだから読書には違いないのだろうが、感覚としてはただただ歴史を紐解いてるだけ

 

じゃあなぜいきなり史記を読書とか言い出したのか?

それは史記の持つ強い物語性が故である。

 

 

 

 

 項羽本紀と高祖本紀

この二つはまるで二人を対比するが如く記されている。

 

例えば項羽と劉邦(高祖)がお互いに時の皇帝である秦の始皇帝の行列を別個に見た時の反応が記されている。

項羽は「あいつに取って代わってやる」という直情的で気性の荒いところがありながらも大きな野心をうかがわせ、叔父に才能を見出されている。

一方で劉邦は「男たるものああでなくてはなぁ…」と素直に感嘆する度量の大きさを見せている。

 

他にも項羽は戦の才能がある一方で自身の力を過信しすぎるが故に人の意見を是とせず、劉邦は才能が全くないものの度量の大きさで部下の才能を存分に生かすといったシーンが多く見られる。

 

そもそも歴史的事実を後世に残すためだけであれば対比などは必要ない。

 

その上、本紀というのは歴代の皇帝一人につき一つたてられて、その個人の歴史について記すいわゆる伝記みたいなものであるが、項羽は戦いに敗れ皇帝になれなかった"敗者"であり、本来は列伝で記されるべきであるにも関わらず本紀がたてられている。

 

つまり司馬遷はこの二人を物語のように対比しながら記すことで後世に何かを伝えたかったのであると思う。

司馬遷自身の自叙伝である太史公自序でも後世へ強いメッセージを残す意欲をうかがわせている。

 

このような物語性を持つ箇所はこの史記にはこれ以外にも多く存在し、他の歴史書とは一線を画すものであるように思えたため、久しぶりに読書した気がしたのである。

 

 

 

三国志演義のように歴史を元にした物語が好きである人は多いだろう。

だけど、その元となった歴史書は敷居が高くて手を出すことはない人が大半だと思う。

 

しかし、この史記は物語のように読め、歴史家の生の文章が強いメッセージを読み手に伝えてくる。

 

そういう意味では現代の小説やエッセイとは異なった面白い「読書」となるのではないだろうか。